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万物観察日記 2001年・中

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2001年08月19日 ( 日 )

かふうは音痴である。自慢にはならないが、音楽の成績は悪い。
リズムというものがなんなのか分からない。三拍子と四拍子とはどう違うのだろう。

音感の悪い人間からみると、なるほど人間と機械の違い、耳とマイクの違いが分かるような気がする。
音感のいい人は、曲を聞いたときに、何の楽器が使われているのかわかるそうだ。これは人間の「音波を周波数別に分析する能力」がいかされた結果なのだろう。だが、音感の悪い人間や、マイクにはこの能力がない。結果として、音楽を録音して、自動的に楽譜を書くことは、音感の悪い人間やコンピュータには難しい作業となる。
音声認識がコンピュータには難しいのも、この辺によるのだろう。幸い、かふうは歌の歌詩を聞き取ることはできるが.... ( それでも、ある曲を、歌詩つきと歌詩なしで聞かされたとき、同じ曲がどうかを判定することは難しい )

機械に苦手な仕事というものは、やはりある。それをさらに技術研究して人間にできるようにすることは、不可能ではないだろう。しかし、それでも意味があるのか、疑問が残る。
技術創世記 ( 2001年8月19日 日本経済新聞 ) では、「ロボットに心を持たせよう、ロボットに企業経営をさせよう」とする計画が紹介されていた。
はたして、「そこまで苦労して不向きなことをできるようにされた機械」というのは、どの程度の価格なのだろう。いまや何をするにも、設備ばかりに金がかかって、採算の取れない事業ばかりである。それでも無人化することに、何の意味があるのだろう。

未だに機械を万能と信じる人がいるのだ、と感じさせられる。
さまざまな状況で、機械と人と、どちらが効率がいいのか。冷静に考えなければならないはずだ。


2001年08月18日 ( 土 )

最近話題の漫画、ジパング ( かわぐちかいじ 講談社 ) を読んだ。

200X年6月、海上自衛隊の護衛艦「みらい」は横須賀基地を出港する。しかし航海の途中、暴風雨に巻き込まれ、気がついたら1942年に漂着していた。という、設定の漫画である。このX年という設定が非常に気になった。

北斗の拳の「199X年、世界は核の.... 」をはじめ、2000年問題に巻き込まれた漫画は数多い。ドラえもんや宇宙戦艦ヤマトなどは、遠い未来のことなので設定の破綻まで時間的余裕がある。しかし、ジパングは懲りずに200X年と設定した。
幸い、北斗の拳などが「近未来」としてX年を使ったのに対して、ジパングは「現在」としてX年を使っている。従って、他のフィクション漫画と違って、最初から、X年を通り過ぎて仕舞っても問題は無い。

では単に「いつ起きてもおかしくない」という意味で「いつか分からない現在」としてX年を使っているのかというと、そうでもなさそうだ。
ジパングの設定のX年は明らかに2004年を意識している。これは、月齢についての会話や、艦内のカレンダーの日付と曜日の関係から調べられる。1942年6月5日は半月だし、200X年代の6月4日で満月となる年は2004年しかない。草加少佐が意識を取り戻して最初にみたカレンダーの6月1日は火曜日だが、これも2004年しかない。

かわぐちかいじ氏は、明らかに2004年を意識しつつ、200X年と書いている。なぜかそこだけが気になって仕方ない。2004年にどんな深い意味があるのか、僕にはさっぱり分からず、その自分の無知さが恐くて仕方が無い。


2001年08月14日 ( 火 )

2001年8月25日、日本の技術力の粋を集めたロケットH-IIAが打ち上げられる。ひまわり5号の後継機を打ち上げるために....

と、いいたいが、残念ながらそこまでの自信はないらしい。ひまわり5号のかわりに打ち上げられるのは、発信機を備えたミラーボールだという。正しく軌道に乗せられたか確認するため、地上からレーザー光で位置測定をするために鏡を備えた重りを打ち上げるのだという。
2001年03月03日の日記でも取り上げたが、ひまわり5号はいつ止まってもおかしくない状態だ。3月から今日までに、南北方向にカメラを動かす装置にも問題が見つかり、南半球を撮影できなくなった。はっきりいって「空うち」をしている時間的余裕はないと思うのだが、今回は「空うち」....試験だという。
( 試験の必要性については素人が意見できるものではないが、果たして「一回成功すれば次からは大丈夫です」と言い切れるのか.... )

さて、ミラーボールといって連想するものがある。"デスコ"だ。
"デスコ"といえば、音楽が流れていなければならない。
音楽を流す衛星はないか?

そういえば意外と面白い衛星があった。
1998年8月に打ち上げられた「光明星一号」だ。カンミョンソンと読むらしい。

嘘か誠か、ミサイルか衛星か、結局僕は本物を見たことがないので知らないが、朝鮮中央放送の情報を信じるならば、光明星はなかなか立派な音楽衛星だ。「金日成将軍の歌」を放送しているという。
今も動いているのか分からないが、これでスピーカーとミラーボールがそろう。
世界初の"宇宙デスコ"を、朝鮮と日本の手で!!

割と似た国民性の両国だけに、こんなところでも似たことをして仕舞うのだなァ。と、ちょっと和やかな気分になってみたりする。

かつては、「行く」ことが至上命令だった宇宙飛行も、今は「行って何をするか」が問われる時代になっている。
栩木誠 2001年07月24日 日本経済新聞夕刊より

宇宙での活動が思ったほど学術的に意味がないことがわかってきた昨今、こういうばかばかしいことで宇宙への興味を取り戻すことから始めないといけないのかも知れない。
でも、学術的に意味が少ないといっても、最低限の水準は維持して欲しい。ひまわり〜


2001年07月22日 ( 日 )

先日、図書館で、久し振りに小学校、中学校の教科書を読んでみた。残念ながら理工学部の図書館には数学、理科の教科書ばかりで、歴史の教科書はなかったが....

新しい歴史教科書をつくる会 ( 以下、つくる会と表記 ) の教科書が物議を醸している。その騒ぎは日本国内にとどまらず、周辺アジア諸国を巻き込んでいる。
しかし問題はつくる会の教科書だけによるものだろうか? まるでつくる会の教科書だけが偏見に満ちた教科書であるかのように騒がれているが、他の教科書はなぜ話題にならないのだろうか?

この騒ぎは教科書だけの問題ではない。教科書を離れて、まず歴史というものの性質を考えなければならない。
分かりきったことだが、歴史は事実ではない。事実は、現実にそれが起こっているその瞬間にしか存在せず、後になってからそれを伝えるものは決して事実とはなりえない。後から伝えるものは、その事実を完璧に繰り返すことができない以上、必ずなんらかの主観を伴った解釈から部分的に再現されたものでしかない。
歴史教科書に書き込まれるものも、この部分的再現にすぎない。事実と文字は全く異なったものであり、文字では現実の部分的再現しかできないからだ。そして現実を文字にするのは人間である。全ての人間には視点がある以上、その視点に依存した変換になることは避けられない。ここでいう視点は国籍、宗教、地位といった大きなものに限らない。10人が関われば、10人なりに違う解釈をして当然なのだ。歴史教科書には事実はおろか、客観的文書を書き込むことすら決してできないのである。

つくる会の教科書に限らない。すべての教科書に解釈は含まれてる。それは歴史の普遍的な性質で、日本に限らない、韓国、北朝鮮、中国、他の国々も同様の歴史問題を抱えているのだ。
それにも関わらず、つくる会の教科書を採用するかどうか、諸外国の歴史を受け入れるかどうかだけが注目されている。まるでつくる会の教科書さえ使わなければ、問題解決という雰囲気である。
しかし僕は、どこかに正しい歴史教科書が存在するという幻想を抱くことこそが最も危険だと考える。つくる会は内容自体に対する評価はともかく、教科書が事実かどうかを考えさせるよいきっかけを与えてくれた。これを機会に、もう一歩踏み込んで、他の教科書、さらには歴史というもの全てをうのみにせず疑う考え方を、広めて欲しいと思う。

これが発展して、教育を全て一つの方針に統一しようという動きや、歴史解釈を全て一つに統一しようとする動きをとめられれば、嬉しく思う。


2001年07月01日 ( 日 )

どんなコンピュータゲームにもルールはある。例えばスーパーマリオではクリボーに横からぶつかると殺される。理不尽なようだが、スーパーマリオとはそういうルールを持ったゲームだ。
昔のコンピュータゲームは単純で性能も悪かった。だから現実世界の再現など望めず、コンピュータ内に独自の抽象化された世界を作り、その世界のルールの中でプレイヤーはゲームを楽しんでいた。しかし今はコンピュータの性能向上に伴って限りなく現実に近い世界がコンピュータ内に作られるようになった。
その結果、妙な感覚が生まれてきた。プレイヤーが「ゲームのルールが不自然だ」と感じると、そのゲームを批難するようになったのだ。そのゲームをあるがままに受け取るのではなく、自分の今まで認識していた常識と違うルールに文句をつけるようになってきたのだ。
これはコンピュータを絶対のものと信じるようになった結果の感覚なのだろうか?

自分の予想していたものと違うものを批判して仕舞うのは、何もゲームの中のことだけではない。
人間関係でも、子育てでも、自分の予想と違うものを認識できないという事態は多くなっている気がする。
自分の思い通りにならない中で、それでもいいと感じる感覚。それがここのルールだと、『仕方ない』と感じる感覚。そしてそのルールの中でやりくりする技能。それが大切なのではないだろうか?


2001年06月23日 ( 土 )

またしても一ヶ月近くあいてしまった万物観察日記。どうにもかふうは日記に向かない性格のようです。小学校時代から日記には苦しんできました。
「一日何もなかったのか! 」と先生はいうけれど、「個人の秘密ってものがあるだろうが! 書けないことだらけだよ! 」と言い返したかったです。当時の自分には説明できるだけの知能がありませんでしたが....

最近、犯罪が凶悪化してきたといいますが、凶悪化とは無関係に防犯に努めることは大事ですね。

うちの隣がコンビニエンスストアなのですが、見ていると、お店の前にエンジンをかけたまま車をとめて買いに行く人がいます。当然鍵はついたまま。よくそんなことができると呆れてしまいます ( 我が家は東京都にある ) 。
他にも満員電車でリュックを背中に背負う人や、口のあいたバッグを背側に回しているも人も気になります。荷物が周囲の人にぶつかって迷惑になる以前に、自分の荷物盗まれてもいいのでしょうか? 開いた口から財布なんかがみえていると、これまた呆れてしまいます。
これではどんな素人でも盗めるし、通りすがりの人を誘惑している以外のなにものでもありません。防犯以前に犯罪を誘発する行為はやめるべきだと思います。万引き癖のある人の前でこんなことをするのは、禁煙中の人の隣で煙草を吸うくらいのイジメです。

夜道は前後を歩く人の位置に気をつけるとか、最低限のことはするべきではないでしょうか? 不景気ですしね。これでは動かされる警察もかわいそうだし、盗んじゃった人もかわいそうに思えて仕舞います。事件はせめて被害者に非 ( 油断 ) のない事件だけに減らしたいものです。

そういえば、なぜ挨拶をするのかというのを小学生の頃習いました。「利き手に武器をもっていないことを見せたりして、相手に敵意がないことを精一杯伝えるのが、挨拶という儀式です。これをしないと相手はあなたに怯えて襲ってくるかも知れないのです」これまた当時は理解する知能がなかったんですが....
これからの時代はみんな一緒ではなく、一人一人個性と能力と財産に違いをもつようになる時代です。盗むも敵対も、ある意味ではみんな一緒ではないからこそ起きることです。知り合いには挨拶をし、挨拶のない人や他人には警戒した方がよいと思います。

本日のおすすめページ MEMORIZE
作れば宣伝までしてくれて、まさに個人ページを始める上で必要なものが全て揃っている。


2001年05月30日 ( 水 )

高校生の頃、友人の一人が懐中時計をもっていた。ポケットから鎖を引いて取り出し、さっと蓋を開けて時刻を確認する姿に、かふうは憧れた。

ポケットから取り出して、開けて時刻を確認....ここまでやってフト思う。おォ、この現代の折り畳み携帯電話をみる動作は、懐中時計そのものではないか!
携帯電話に綺麗な鎖をつけたら、懐中時計の優雅さの片鱗でも見せてくれないものだろうか? どうせなら表示盤周囲も金属っぽくして、時計モードでは針の絵が動き、竜頭と見せかけて縮めたアンテナとか!

ただ折り畳み携帯電話には、懐中時計以上に連想させるものがある。
開いて、画面を見つめて、テクマクマヤコン、テクマクマヤコン....


2001年05月22日 ( 火 )

最近、日記を書いていなかった。一ヶ月に一度は更新すると、一部の人に対して宣言していたのだが、その期限も迫っていた。
「今月はやや忙しかったのだ」と言い訳しつつ「そろそろネタも探さないと」と思い始めた頃、うまい具合に面白そうなネタはやってきた。よくできている。

今話題の「バターはどこへ溶けた? 」である。20日、朝日新聞の中で面白いという紹介を読み、かふうも本屋に走った次第だ。 ( ところで著者のディーン・リップルウッドという人、イザヤ・ベンダサンのような人なのだろうか.... 気が向いたら調べてみよう。 )

この「バター」、真っ向から「チーズはどこへ消えた? 」に対立する内容である。「変化に惑わされるな、変わらない大切なものもある」と教えてくれている。いい話である。この話がというより、二つの話があることがいいことである。世の中、チーズ派、バター派、どちらの人間もいるし、どちらか自分に適した方を選べるようになっているのはよいことだ。チーズを追いかけることで幸福になれる人も、バターがなくても幸福になれる人もいる。
バターがなくても幸せだし余裕をもってチーズも追いかけられるという、実に幸運な人もいるし、チーズも追いかけられずバターなしにも耐えられないという、実に不運な人もいるが....

今日の日記は書くべきではなかったかも知れない。「バター」の最後にある通り、あまり議論しない方がいいと思うからだ。従って、この本のことが気になる人は、この文は宣伝程度に思ってもらって、ぜひ本屋 ( 或いは既に持っている友人のところ ) に行くだけにして欲しい。
いつも、この日記に関してはさまざまなお手紙を頂くが、今日の分については手紙を頂いても原則返事は出さないことを許して欲しい。


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